遠い昔の事 その15

後ろ見ておかなくてもいいの?

“ケンチャナヨ”

その言葉は聞こえないふりをして、

ふたたび“後ろ見なくても大丈夫?”

ぶつけないでよと言う。

“ケンチャナヨ” “ケンチャナヨ”

やっぱり見ておくよ。

“大丈夫や”と少し怒り気味に父が言った。

そのすぐ後にゴリィーと鈍い音。

大丈夫ではなかった。

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音をたてないように、そーっとカギを差し込みゆっくりと回しドアを開けた。

すーっと体を滑らせるようにドアを抜け

キャリーバッグを中に入れる。

忍び足で洗面所に向かおうとすると

“おかえり”と母の声がした。

少し振り返り“ただいま”とわたし。

その私の顔を見て“泣いたんか?”
と聞く母に

“ちょっとだけな”と言い、そそくさと

洗面所に駆け込む。

鏡を見た私は呆然とする。

病院で寝ている父と同じくらいに顔が

パンパンになっている。

今さっき“ちょっとだけな”と言い放った
わたしを消してしまいたい。

シャワーを浴びて少しすっきりした。

顔には念入りに水をかけたが、まさに焼け石に水。

もう開き直って着替えたわたしは

母にキャリーケースを差し出した。

キャリーケースを開けて母と中身を確認する。

着替えの服、下着類、あの日見た太鼓の一回り小さい目のやつ、

つるつるとした生地のきんちゃく袋がたくさん(たぶんお土産だろう)、韓日辞典、パスポート等だった。

小さめの太鼓を除けば私の持ってきたボストンバッグにも収まりそうなくらいだ。

父は2か月に1度くらいのペースで韓国に行っていたので

旅慣れたものだったのだろうと思う。

出した荷物をキャリーバッグに戻していると

母が“ビデオカメラが無いね~”と言った。

そう言えば旅行に行く前にビデオカメラを嬉しそうにわたし達に見せびらかしていた。

“高いやつやから触るなよ”とわたしが家で

晩御飯を食べている時にわざわざ言ってきたので

憶えている。

“ほんまや、明日イさんに聞いてみる”と言った。

その後は今日の病院で説明された事と明日からわたし達がすることを母に伝えた。

晩御飯は近くのコンビニで買った、キンパとチジミとわかめスープで簡単にすませた。

チジミを食べているときに母が

“これは、スーちゃんの作ってくれた野菜チジミの方が美味しいね”と言っていた。

スーちゃんは、この話の冒頭でfaxを訳してくれたチャンさんの彼女だ。

スーちゃんは少しふくよかで優しい雰囲気だ。

チャンさんを叱る時はくちびるをとがらせていたのが印象的だ。

お料理が上手でたまに野菜チジミを作って

わたし達におすそ分けしてくれた。

野菜の甘味と生地の旨味がちょうどよく

もっちりとしていて本当に美味しかった。

その後チャンさんとスーちゃんは結婚してかわいくて大きな

赤ちゃんを授かることになる。

晩御飯が終わった後で母に

こっちに来てからちゃんと食事して無いねと言って

あっそうか、観光でもないし当たり前かと自問自答に終わった。

初めての海外旅行にして親子二人旅

旅の目的はいつ目覚めるか分からない

父の引き取り。

決まったのはその日の朝の開店後だ。

そう言えば母と二人きりで出かけた記憶は

ジャッキーチェン/サモハンキンポー/ユンピョウ出演の

映画(大福星)を見に行って以来だと思う。

すると母が明日することが終わって時間があったら

あのタクシーの運転手さんが教えてくれた店に行こうと提案した。

わたしは嬉しくなって直ぐに“うん、そうしようと”言った。

こっちに来てから初めて、明日が来るのを少しだけ楽しみに思えた。

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